2012年5月13日日曜日

コンプライアンスとは権威への屈服


私は、安易なコンプライアンスを「権威への屈服」と考えています。

法律は、国民を統治者するために作られたものであり、国民の価値観は変わるため時代遅れであったり、時には間違ったりします。また、国によって、統治の方法や考え方も異なるため、同じもではありません。つまり、法律は、必ずしもこの世の普遍的なものではありません。

一方で、倫理感は、「人を傷つけてはならない」とか「人の自由を奪ってはならない」など、人類に共通する価値観です。宗教の違いにより異なる部分もあるものの、より本質的な部分には普遍性があると言えます。

法令遵守は大事ですが、悪法をまで遵守する事は倫理的に問題でしょう。ところが、正しい倫理観を持ち合わせなければ、法律の良し悪しを判断できません。それでは、法令を遵守しても法の奴隷になってしまいます。例えば今シリアで法令遵守と言えば、政府に異を唱える民衆を殺害することです。

つまり、倫理観が欠如したまま安易に法令遵守を唱える事は、権威への屈服と言えます。安易にコンプライアンスを提唱する企業もありますが、それは考えものです。大切なことは、コンプライアンスよりも、正しい倫理観を持つことです。

(おしまい)

2012年5月6日日曜日

浜岡原発停止問題に見る法治国家論について


菅直人首相が浜岡原発を鶴の一声で停止させたことについて、「法的根拠のない要請(事実上の命令)を首相が公然と行なうのは言語道断」と、批判する有識者がいます。しかし私は、そういった意見を、稼働継続が合理的判断だとしても、有識者による原発を継続稼働したいがための、ただの「屁理屈」と考えています。

○民主主義における法律の目的とは何か?
法律は国が国民を統治するための手段であり、考え方や手続きを明文化したものです。私は、形式的な法的手続きを逸脱したとしても、また、非合理的な判断であっても、最終的に民意を反映していることが肝要と考えています。大多数の民意と施行された法律が反している場合、正すべき対象は民意ではなく法律です。民意が変われば、法律も変えるべきです。それこそが民主主義における法治です。法律とは、民意を反映して国を統治するために制定された、ただの道具です。私達は、法による支配を受けますが、「法の奴隷」ではないのです。

○福島原発後の民意はどうか?
昨年国民が原発の稼働是非に関して福島の事故を目の当りにし考え方を急変したことは、各紙の世論調査からも明白です。こういった状況で、当時の菅総理は、識者から批判を受ける覚悟で英断し、賞賛に値します。重要なことは、正しいかどうかでなく、国民から支持されているかどうかです。

○浜岡原発停止は本当に違法だったのか?
実際に電気事業法をみると、下記の通り政府には原発の使用を一時停止する命令権限が与えられています。実際には法的にも問題がなかったことが分かります。

[電気事業法]
第四十条  経済産業大臣は、事業用電気工作物が前条第一項の経済産業省令で定める技術基準に適合していないと認めるときは、事業用電気工作物を設置する者に対し、その技術基準に適合するように事業用電気工作物を修理し、改造し、若しくは移転し、若しくはその使用を一時停止すべきことを命じ、又はその使用を制限することができる。

つまり、浜岡原発停止を違法と訴えている人は、よほどの「屁理屈」のプロなのでしょう。

おしまい